后续战略的几点说明 (第3/3页)
文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたよう
です。さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めておりました。
『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり
『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』「度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候
そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかかりましたが、大敗します。(意思大体是来年的反攻计划因为秀吉的死而流产,日军的出兵计划也因为明朝援军的抵达而被迫中止,此后便是蔚山、泗川、顺天等地的日军开始溃退了。)
综上,熊仔认为稷山过后日军并未全线溃退,而是战略后撤(当时明军的第二波援军尚未抵达,对日军造不成威胁),以待休养后来年再度进攻,如此持续下去,已达到疲敌的效果。
因此,本书接下来将会以此作为基调,接下来的章节如果出现与此相关的事件,将不再多做解释,请大家理解。
『加入书签,方便阅读』